電気鉄道

GO! GO! エレクトリシャン 小トリップ・シリーズ No.7 怒涛の前編

埼玉県で初めて敷かれた電車線《川越電気鉄道》を知っていますか?

川越電気鉄道を動かす電力は《川越火力発電所》からの供給でした!

~小江戸・川越はモダン埼玉の牽引役でもあった!?~

取材・構成/「週刊電業特報」編集部(砂耳タカシ)

「埼玉県電灯発祥の地」を示す案内看板。下に書かれた方面説明でこの場所が市内の中心にあることがわかる

◇はじめに(プロローグ)

 上の写真は東京電力パワーグリッド川越支社(埼玉県川越市三久保町)の前に設置されている案内看板です。

 看板の最上部には「埼玉県電灯発祥の地」と書かれ、以下のような説明文が添えられています(説明文のママ)。

 川越火力発電所跡地--東京電力川越支社は、かつては川越火力発電所でした。明治三十七年(一九〇四)年、埼玉県下で初めての石炭火力発電所として一〇〇KW発電機二台を使用し、川越町での電灯供給を開始しました。]

 川越電気鉄道--発電所で作られた電気を使い、明治三十九年十月には川越~大宮間を結ぶ電気鉄道(※編集部注:埼玉県で初の電気鉄道路線、起点は川越久保町駅)が開通し、チンチン電車の愛称で親しまれました。なお、駅(川越久保町)の跡地は川越市立中央公民館(※編集部注:東電パワーグリッド川越支社のお隣)となっています。]

 今年の初夏に実施した別件の取材の際、たまたま目にしたこの看板に導かれる形で、この夏から秋にかけて、筆者は何度か川越を再訪することになりました。

 最初は「川越火力発電所(稼働期間は1904=明治37~1928=昭和3年頃)」と「川越電気鉄道(稼働期間は1906=明治39~1941=昭和16年)」の痕跡を散歩気分で訪ねるつもりでした。

 でも、どちらも80年から90年前に稼働を終えており、残念ながら、具体的な痕跡(絵になる物件)はあまり(というか、ほとんど)残されていませんでした。

 しかし、視点を大きく「川越の電化史(電気鉄道も含む)」、ひいては「日本の電化史(電気鉄道も含む)における川越の位置づけ」というふうに広げ、さらにその背景に脈々と流れている「川越の近代史」、ひいては「日本の近代史」という観点なども含め、三重にも四重にも複眼的にみながら歩くうちに、様相は一変しました。

 絵になる物件は極端に少なくとも、「歴史の記憶」という、目には見えないけれどもこちらの気持ちをとても豊かにしてくれる「エア歴史物件」が次々と現れてきて、実に実に楽しい道行(みちゆき)となりました。

 そんなこんなで1回の取材だけですぐ書き始める予定が、3度の撮影取材を行い、それでも足りずに、川越市中央図書館での資料閲覧にさらに2度の訪問を重ねる結果になりました。

 その割にはさほど緻密な内容になっていないのはお恥ずかしい限りですが(笑)、要は「川越の近代史」の面白さにハマってしまった結果の「度重なる訪問」ということになったようです。

 川越の近代史はホント、奥が深いです。それは日本の近代史全体が奥深いからこそ、でしょう。

 前置きはそれぐらいにして--。それでは早速、本題に入っていきましょう。

東京電力パワーグリッド川越支社(川越火力発電所跡、川越市三久保)
東電パワーグリッド(川越火力発電所跡)に隣接する川越市中央公民館は川越電気鉄道の起点・川越久保町駅跡

 東京電力パワーグリッドは首都圏の送配電事業を行う東京電力の関連会社ですが、先に書いたように、現在その川越支社となっている場所には、かつて川越火力発電所がありました。

 川越市の前身である旧川越町エリアに電力を供給するべく、1904(明治37)年に建設された発電所施設ですが、川越火力発電所は当初から東京電力(当時の社名では東京電燈)の傘下にあったわけではありません。

 当時の日本の電力事情は、今とはまったく様相が違います。現在の巨大な発電所は人家の少ない場所に設置されていますが、当時の発電所はまだ発電能力が低く(せいぜい半径2㎞程度とされています)、郊外に建設すると送配電がしにくいため、むしろ街なかの中心部に小規模に造られていました。

 たとえば日本最初の火力発電所は、このシリーズで何度も触れてきたように、東京電燈(東京電力の前身)が発足と同時に東京市内に造り始めた5つの火力発電所(正式名称は第1~第5電燈局)です。5つの火力発電所は1887(明治20)年~1890(明治23)年にかけて、日本橋茅場町、麹町、京橋、浅草・千束、神田に、それぞれ造られていきます。

 これらのエリアは帝都・東京の中心地ばかりです。企業がたくさん立地している地域だったり、政財界人がたくさん住んでいる地域だったり、歓楽街が立地している地域だったり、いわば東京でいちばん「電力需要」の多い地域ばかりです。

 それ以外の地域の庶民はまだ行灯やランプなどを照明器具に使っていた時代でした。

 それでも電力需要の伸びは凄まじく、1895(明治28)年には浅草に、5つの火力発電所(第1~第5電燈局)を全部足したよりも大きい電力を生み出す浅草発電所が早くも建設され、先の5つの電燈局は廃止されます。

 それでもまだ浅草(隅田川沿い、現在の台東区蔵前)の中心地の近くに建てられています。

 だから1904(明治37)年の段階で、埼玉県下初の火力発電所が川越の繁華街近くに建設されたのも自然なことだったといえます。

 発電所を建設したのは川越電燈株式会社。埼玉県で当時最も繁華な街といわれた旧川越町の有力商人(江戸時代以来の伝統を誇る、江戸と川越を結ぶ新河岸川の舟運で財を築いた豪商)たちが中心になり、設立された会社です。

 社長の綾部利右衛門は、川越町が埼玉県で初めて市制を施行(1922・大正11年)する際に、初代市長にもなる川越随一の豪商でした。

 1904(明治37)年に、川越火力発電所のお陰で、埼玉県下初の電化(電灯の普及、川越火力発電所の発足直後の電力=電灯加盟者は431軒のみ)が始まった川越町には、さらに2年後の1906(明治39)年、川越と大宮を結ぶ、これも埼玉県で初めての電車路線《川越電気鉄道》が開業します。

 石炭を燃料とする蒸気機関車(SL)が牽引し、列車を走らせる非電化の鉄道としては、1895(明治28)年、川越(現・本川越)~国分寺間を結ぶ川越鉄道(現・西武新宿線&西武国分寺線)が、川越に乗り入れた鉄道の第1号ですが、その11年後には、川越を早くも電気鉄道(路面電車、愛称はチンチン電車)が走ったことになります。

 その母体となり、電車運行のための電力を供給したのも川越火力発電所(川越電燈)でした。

 実はこの川越電燈には、さらに前身となる川越馬車鉄道という会社があり、1901(明治35)年に発足しています。馬車鉄道というのはレールの上を馬が車輛を引く形式の、明治時代初期特有の鉄道です。東京も含めて、電気で動く路面電車は、この馬車鉄道のレールをほぼそのまま利用する形で発足・発展していきました。

 川越電燈株式会社が元々は川越馬車鉄道(予定ルートは川越電気鉄道と同じく、川越~大宮間)としてスタートし、火力発電所を建設して電灯を川越に灯した後、すぐに川越電気鉄道を発足(その時点で川越電燈は川越電気鉄道と合併)したわけです。

 その間、わずか4年間。しかも、川越馬車鉄道は実際には稼働しないまま、定款の目的が会社発足の年にすぐ、馬車鉄道から電気鉄道へ書き換えられたとされます。

 そこから類推されるのは、埼玉県下で初の電化を実現するとともに電気鉄道を発足させることが、川越馬車鉄道という会社を作った最初からの目的だったのではないかということです。最初の社名が川越馬車鉄道だったのは、この社名をダミーに使うためで、表向きは馬車鉄道会社としておいて、発電所事業や電気鉄道事業をひそかに準備したということなのかもしれません。

 別の一説には、鉄道事業よりも馬車鉄道の方が、埼玉県からの設立許可がスムーズに得られるからだった、ともされています。

川越電気鉄道の線路跡(川越火力発電所と川越久保町駅の前を走る直線コース)
川越電気鉄道は川越久保町駅を出ると、火力発電所と川越久保町駅の周囲をループ状に周回して街に出た
こちらも火力発電所と川越久保町駅の周囲を走るループ状線路の跡

 いずれにせよ、初代社長・綾部利右衛門をはじめ、川越電気鉄道の幹部を構成していた川越の豪商たちは、どうしても自分たちの手で、埼玉県下初の電気鉄道を敷設(付随して埼玉県下初の電灯の導入を)したいという意欲に燃えていたようです。

 それは地域の発展のためには鉄道の敷設が不可欠だということからだと思われますが、川越の商人たちは、実は国分寺と川越を結ぶ川越鉄道の敷設(1895年開業)には反対していました。

 それ以前にも川越への鉄道乗り入れの話は何度かあったようですが、それもまた川越の商人たちに反対され、実現しませんでした。

 それも無理はありません。先に触れたように、川越の豪商たちは江戸時代初期に開かれた、江戸と川越を結ぶ「新河岸川の舟運」で財を築いてきたからです。

 鉄道が敷設されれば、それまで物流・人流の主役を担ってきた舟運は衰退の道を歩まざるを得ません。

 たとえば川越電気鉄道より11年前に、国分寺~川越間で敷設された川越鉄道は、川越から現在の狭山市、所沢市をへて国分寺に至るコースをとっていました。

 新河岸川の舟運を通じて埼玉県下随一の物流基地の役割を果たしていた川越と川越商人にとって、川越鉄道の通るルート、さらにその国分寺から先の甲府方面に至るルートも、舟運と馬車などを活用した重要な商業ルートでした。

 案の定、川越鉄道が開通してからは、そちらの方面の物流は、川越鉄道に大きく蚕食されることになりました。

現在の埼玉りそな銀行川越支店(国登録有形文化財)は1878年、埼玉県で初めて作られた銀行・旧国立第八十五銀行(後に私立八十五銀行)跡
小江戸川越の名物・蔵造りの町並みのすぐ裏側に火力発電所と川越久保町駅が建設された
商都・川越の繁栄を物語る川越市商工会議所の堂々たる建物(1927年竣工の旧武州銀行跡、国登録有形文化財)

 そうこうするうち、鉄道敷設に乗り遅れた商都・川越をよそに、1883(明治16)年にすでに開通していた上野~熊谷間(日本鉄道、後の東北本線、大宮駅は1885年開設)を結ぶライン、とくに大宮方面のエリアは商業的に急速な発展を遂げていきました。

 そのため川越からは大宮行きの乗合馬車が当時としては頻繁に出ており、埼玉県内の人流・物流の要の一つになっていました。

 川越電気鉄道(および前身の川越馬車鉄道)が川越~大宮間を結ぶことを当初からの目的にしていたのも、そのため(乗合馬車に替わる鉄道による人流・物流路線の獲得)だったのでしょう。

 実際、川越~大宮間を結ぶ鉄道は国鉄川越線(現・JR川越線)が1940(昭和15)年に開通するまで、川越電気鉄道だけだったので、所期の目的はとりあえず達成できたといえます。

 もっとも、この国鉄川越線が開通したため、脆弱な輸送力しかなかった路面電車の川越電気鉄道は、翌1941(昭和16)年に廃止の憂き目に遭うのですが……。

 しかし、なのです。国鉄川越線は昭和30年代まで非電化路線でした。そういう意味合いからも、1906(明治39)年の開業から1940(昭和15)年までのわずか34年間でしたが、川越~大宮間の鉄道路線の立場を独占していたとともに、唯一の電気鉄道(電車)として運行されていたのは、川越電気鉄道だけでした。

 ちなみに1914年に池袋~川越間で開通した東武東上線の電化は1929(昭和4)年のこと。川越電気鉄道より11年前に開通していた川越鉄道の電化は1927(昭和2)のことです。川越電気鉄道は昭和初期まで、川越を起点とする鉄道では唯一の「電車」の地位を保っていました。川越電気鉄道の先進性は、そういう意味でも際立っていたといえます。

 このように鉄道路線が充実化していくにつれ、江戸時代初期からほぼ明治時代いっぱいまで隆盛を誇った新河岸川の舟運は、予想通りに衰退の一途をたどります。結論を先にいえば1931(昭和6)年には、埼玉県から「通船停止令」が出され、完全に終焉します。

 しかし、ご存じのように商都としての川越は今も元気です。観光地としての隆盛は、とどまるところを知りません。

 それらはすべて舟運が隆盛を誇った時代の有形無形の財産を、今もまちづくりに活かしているからこそでしょう。舟運は衰退しましたが、舟運の財産は今現在もそのような形で十二分に生かされているといえます。

 それはまさに、鉄道時代の勃興という危機を、さまざまな方策で乗り切った「先人の知恵」と、それを継承した後の世、現代にまで至る川越の人たちの創意工夫があったればこそです。

 とまぁ、行き当たりばったりの極み、あちこち寄り道ばかりの前編でまことに恐縮ですが、次回(後編)は江戸時代・明治時代に賑わった新河岸川の舟運の歴史の痕跡と、川越電気鉄道の痕跡とを具体的に訪ね歩いていきます。乞うご期待!!

川越電気鉄道の起点・川越久保町駅の次の電停(駅)は成田山前。ここから大宮方面に向かった
江戸~明治の商都・川越の繁栄を担ったのは、江戸と川越を結ぶ新河岸川の舟運だった

                  (取材・写真・文/未知草ニハチロー)