水力発電所

電気仕掛けの記憶旅/電化の跡地・発掘散歩:No.8

日本の初期発電事業を支え、今も現役!!

駒橋発電所・八ツ沢発電所施設を訪ねる

~明治から令和に至る電化史の《生き証人》~

 本欄、2年半ぶりの更新です。コロナ禍による行動制限などをキッカケに、長い休止期間をとらせていただきました。しかし、今年のゴールデンウイーク明けから再び取材を開始。シリーズ名も「電気仕掛けの記憶旅/電化の跡地 発掘散歩」と変更しての再出発となります。

 本来であれば、休止前の本欄に、旧シリーズ「GO! GO! エレクトリシャン 小トリップ・シリーズ」第7弾として掲載した「埼玉県で初めて敷かれた電車線《川越電気鉄道》を知っていますか?」の続編を提供すべきところですが、いま、再取材を行っています。

 いずれ、その成果である「続編」をお届けするつもりですが、装いも新たに再開した本欄では、まず、旧シリーズからの通算第8弾として、今から100年以上も前に山梨県に建設され、今も稼働を続けている「駒橋発電所」とその周辺の探訪記を掲載させていただきます。

 この駒橋発電所、電化が急速に進んだ首都圏への電力供給を一時期は一手に引き受けるほどの、それは凄い発電所だったのです!!

写真1/戦国時代の砦をほうふつさせる駒橋発電所のヘッドタンク部分
写真2/落差102mの揚水式水力発電の主役は長大な水圧鉄管。ここを一気に流れる水の圧力が水車を回し、発電機をも回す
写真3/ 桂川から揚水された水は発電機を稼働させた後、放水路を通って桂川に戻される。生じた電力は変圧器を通し送電線に流される

☆国の文化財にして現役の発電システム

 山梨県大月市にある東京電力駒橋発電所を訪ねました。駒橋発電所は、山梨県を流れる桂川(相模川上流部)の水流を活用した水力発電所で、1907(明治40)年に建設されました。施主は「東京電力の前身・東京電燈」です。

 駒橋発電所はいろいろな意味で画期的な水力発電所でした。

 落差105m、水量21㎥/sの水力発電システムをもち、6台の発電機で1万5,000kWの電力を出力。5万5,000Vの電圧で距離76㎞離れた東京(早稲田変電所)まで送電を行い、日本で初めて長距離高圧送電を実現した水力発電所として、歴史にその名を残しています。

 このデータが当時いかに傑出していたものであったか? それは駒橋発電所の稼働以前、東京電燈(東京電力/TEPCOのルーツ)による「発電所建設史」をみれば明らかです。

 東京電燈の創設は1886(明治19)年でした。もうすぐ新1万円札の顔となる日本資本主義の父、あの渋沢栄一や、大成建設のルーツである大倉土木など数々の企業を立ち上げ、大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎などが中心になって設立したのです。

 また、大倉喜八郎は1882(明治15)年、日本初の電灯(アーク灯)を、銀座2丁目に当時あった大倉商会(総合商社)の前に設置したことでも知られています(その復元品の街路灯は現在も、銀座2丁目の銀座通りで見られます)。

 さて、1886(明治19)年に設立された東京電燈は、翌年以降、わずか足掛け3年間で、まずは5つの電燈局(火力発電所)を建設し、東京市内への送電を行いました。

 それらの発電所の規模(発電能力)は以下の通りです(建設順)。

・第2電燈局(日本橋区/25kW発電機4基/1887年11月稼働開始)

・第1電燈局(麹町区/25kW発電機11基/1888年6月稼働開始)

・第5電燈局(北豊島郡千束/25kW発電機4基/1888年10月稼働開始)

・第3電燈局(京橋区/25kW発電機4基/1888年12月稼働開始)

・第4電燈局(神田区/25kW発電機4基/1889年稼働開始)

 第1電燈局でなく、第2電燈局が最初に造られたのは、送電エリアに商業の盛んな日本橋界隈や、幕末に徳川幕府と欧米5か国との間で結ばれた不平等条約を是正するべく造られた、日本外交の重要舞台にして国際的な社交場《鹿鳴館》などがあったから、ともされています。

 次に第1電燈局が11台と突出した発電機数を備えていたのは、送電エリアに皇居と政財界人が多く住む麹町界隈を抱えていたからとされます。「停電などさせるわけにはいかない」ということだったのでしょうね、たぶん。

 やがて電力需要が急増するに従って、これら5つの小規模発電所では、首都・東京が求める電力の供給量にとうてい間に合わなくなります。明治維新から30年足らずで、東京における電力消費量(および資本主義経済の活性化)は、そこまで進んだわけです。

 そこで1895(明治28)年、浅草火力発電所が建設されます。第1~第5電燈局(25kw発電機の総数27基)を廃し、東京市内への一括送電を開始することになったのです(建設当初の規模は200kW発電機4基、265kW発電機2基、第1~第5電燈局が生み出す電力の倍以上の規模)。

 しかし、その後も電力需要は商用・家庭用を問わずに急増し続けたため、今回訪ねた駒橋発電所の建設が企画され、1907(明治40)年に稼働開始したのです。

写真4/ 国の登録有形文化財にも指定されている落合水路橋
写真5/ 煉瓦造りの明治の建造物はとても美しい
写真6/ 駒橋発電所から放流された水流は、下流の八ツ沢発電所の水路に取り込まれ、水路式発電の源にもなる
写真7/ 機能的な建造物は独特の美しさがある(水路式・八ツ沢発電所)

☆千住発電所と駒橋発電所が担った東京の電力需要

 浅草発電所(跡地の探訪記をただいま準備中です)は駒橋発電所が完成した後も予備発電所として稼働していましたが、1923(大正12)年に発生した関東大震災で、完全に瓦解してしまいます。

 その代わりに建設されたのが、後に「お化け煙突」の愛称で有名になる千住火力発電所です(本シリーズNo1《お化け煙突で知られる旧千住火力発電所》参照)。

 ちなみに、1926(昭和元)年に建設された千住火力発電所は25,000kWの発電能力をもつ大型火力発電所としてスタート。最終的には75,000kWの発電能力を持つようになり、水力発電の雄・駒橋発電所とともに、大正・昭和初期の東京圏の電力需要を支えていきます。

 しかし、千住火力発電所が1963(昭和38)年に廃止されたのとは対照的に、駒橋発電所は現在に至るまで、規模は縮小されたものの、現役できっちり稼働し続けています(現在は東京への送電は行わず、主に甲府市周辺に送電)。

 発電能力こそ22,200kWと、現代の発電所としては小規模ですが、1907(明治40)年の稼働開始から今年で116年目。駒橋発電所のレンガ造りの落合水路橋は1997(平成9)年に国の登録有形文化財(建造物、写真4、5参照)に指定されており、「現役で稼働している近代産業遺産」としても貴重な存在です。

 また駒橋発電所から下流部にかけて点在する八ツ沢発電所施設(水路式発電所施設、写真6、7参照)は、国指定の重要文化財(2005/平成17年指定)にもなっており、駒橋発電所と併せて、周辺一帯を散策する人が四季を通じてみられます。

 駒橋発電所はJR中央線・猿橋駅下車、八ツ沢発電所施設へは、駒橋発電所から桂川沿いに下流に向かえば、すぐにたどり着きます。

 筆者は今回、JR中央線・猿橋駅を下車後、桂川の上流部に向かって1㎞ほどの駒橋発電所をまず目指しました。

 そして落差102mの3号機(発電能力15,400kW、写真1、2参照)を撮影後、落合水路橋(写真4、5参照)、八ツ沢発電所施設の一部(写真6、7参照)、駒橋発電所の変電所施設(写真9参照)、駒橋発電所横の滝(写真12参照)などを撮影しました。

 これからの季節、2023年夏の思い出に、渓流から吹いてくる涼しい風やせせらぎの音、野鳥たちの声などを楽しみつつ、周辺一帯を歩きながら、電化がはじまった明治時代以降の日本の推移を、あれこれ想像してみてはいかがでしょうか。

写真8/ 駒橋発電所・TEOCO敷地内にある巨大なタービン。かつて使われていた発電機(フランシス水車)のもの
写真9/ 駒橋発電所でつくられた電力を各地に送電するためのつなぎ役を果たす変電施設
写真10/ 駒橋発電所・八ツ沢発電所などの全景は、ダム好きな人にはまさに「絶景」だ
写真11/ 「東京送電水力発祥の地」碑。東京に送電した初の水力発電所が駒場発電所である証
 
写真12/ 周辺から桂川に流れ込む天然の水流

                  (取材・写真・文/未知草ニハチロー)