火力発電所

GO! GO! エレクトリシャン 小トリップ・シリーズ No.6

明治・大正時代には東京の市街地で火力発電所が稼働していた!!

旧東京市電(チンチン電車)を支えた3つの火力発電所跡を訪ねる

~「品川」「深川」「渋谷」火力発電所跡探訪記~

取材・構成/「週刊電業特報」編集部(砂耳タカシ)

写真1/1930(昭和5)年製造、旧東京市電5000形車輛のレプリカ(新宿歴史博物館)
写真2/1954(昭和29)年製造、旧東京都電5500形車輛の1号車(5501)の実物(都営荒川線・荒川車庫)

「GO! GO! エレクトリシャン 小トリップ・シリーズ No.6」がようやく仕上がりましたので、お届けいたします。

 前回分「北海道三笠市・三つの旧炭鉱跡探訪記」のリリースが5月6日でしたので、2か月ぶりのお目見えとなります。

 新型コロナ騒動もあって取材活動がままならず、前回のネタはいわゆる「蔵出しモノ」。今回は正真正銘の新ネタです。

 とはいえ、取材を開始したのは昨年の秋から。以来、少しずつ少しずつ取材を重ねていたのでしたが、そうこうするうちに新型コロナ騒動で取材が中断。それで前回は「蔵出しネタ」をお届けしたというわけです。

 でも、緊急事態宣言が解除されたのを契機に、取材を再開!ついに今日の日を迎えることができました。

 さて、今回のテーマは明治30年代半ばから後半にかけて都内に建設され、関東大震災に被災し崩壊するまでフル稼働していた、3つの火力発電所のお話と、その跡地探訪記です。

 3つの発電所の名称は「品川火力発電所(現在も同名の発電所がありますが、別物です)」「深川火力発電所」「渋谷火力発電所」です。

 これら3つの火力発電所は、1911(明治44)年に発足した東京市電の初期において、電車事業を運営するための電力を全面的にまかなっていました。しかし、その誕生は東京市電の発足よりもさらに数年前のことでした。

 それはいったいどういうことなのか? さらに、今ではほとんど「知られざる存在」と化しつつある、これら3つの火力発電所はどうして、品川・深川・渋谷の地に建てられたのでしょうか?

 お話はそこに至るまでの、日本の《電化》事業の助走期間から始まります。

写真3/日本初の火力発電所・東京電燈第2電燈局の跡地はビジネスホテル(中央区茅場町1丁目、説明板あり)
写真4/1882(明治15)年、銀座1丁目に日本初の電灯(アーク灯)が設置された(写真は復元灯)

☆明治時代の東京の電力事情はどうだった?

 文明開化のシンボルの一つである日本の本格的な《電化》は、1887(明治20)年11月、東京電燈会社(東京電力の前身、以下、東京電燈)が日本橋茅場町に火力発電所を建設したことから始まったといえます。

 それ以前の1878(明治11)年には虎ノ門の工部大学校において、本邦初の電灯となるアーク灯を灯す実験に成功。1882(明治15)年には銀座通りにアーク灯の街灯も設置され、これが一般国民の目の当たりにする最初の電灯となりました。

 しかし、アーク灯は炭素棒などを使う放電灯で、電灯の一つひとつにも専用電池の設置が必要なことや、照明効果の安定性や実用性などに難があり、欧米でもあまり普及しませんでした。

 アーク灯のそうした欠点を克服したのが、日本の竹をフィラメントに使うことで1879(明治12)年に実用化できた、発明王エジソンの白熱電灯です。

 ただこの白熱電灯を広く普及させるには、地域全体をカバーできる安定的な電力供給が不可欠で、端的には発電所の建設とそこからの送配電を受けるシステムとの連携が必要でした。

 1887(明治20)年11月に、東京電燈が日本橋茅場町に日本初の火力発電所を建設したのも、まずはこの白熱灯による照明を皮切りに電力事業を開始(東京電燈という社名が象徴的です)。ひいては電気をあらゆる動力のエネルギー源とするべく《電化》推進の実現を図るためでした。

 茅場町の火力発電所完成が、日本の本格的な電化の始まりと冒頭に書いた所以(ゆえん)です。

 それにしても「あの日本橋茅場町に発電所が?」と驚く人も多いかと思います。一つには当時の茅場町は、隣接する日本橋兜町に東京株式取引所(1878=明治11年設立、後の東京証券取引所)がすでにあったことなどが象徴するように、日本橋界隈全体に銀行や民間企業が続々とできつつあり、電力需要は都心部でも屈指でした。

 同時に火力発電(大量の水を火力で沸騰させ、蒸気タービンを回すことで発電するシステム)に不可欠な河川(日本橋川)がすぐ近くを流れていたという、環境的な条件にも恵まれていました。

 さらにもう一つのポイントは、東京電燈が建設したこれら5つの火力発電所の能力が、とても小さかったということです。使用した発電機が25kwの能力しかなかったため、送配電の範囲は半径2㎞程度だったとされています。

 そのため東京電燈は、まず第1電燈局~第5電燈局という正式名称をもつ小規模な火力発電所を、電力需要の多そうな重要ポイントの近辺に5つ建設しました。

 ただし、これら5つの火力発電所は、第1電燈局~第5電燈局まで番号順につくられたわけではありません。たとえば最初に造られた茅場町の発電所の正式名称は第2電燈局です。

 第1電燈局は翌年の1888(明治21)年6月、麹町につくられました。麹町電燈局は送配電エリア内に皇居があった他、政府高官や高級軍人、有力企業経営者の住宅などもたくさんありました。それで恐らく「第1電燈局」の名称を付けたものの、電力需要の多さは茅場町を含む日本橋界隈のほうが多く、完成はそちらを優先したのではないでしようか。

 次に完成したのは第5電燈局で、1888(明治21)年10月に千束に建設されました。さらに同年12月には第3電燈局が京橋に、1890(明治23)年には第4電燈局が神田に完成します。

 日本橋茅場町の第2電燈局が最初に造られた背景には、もう一つ理由があります。それは送配電エリア内にあの《鹿鳴館》があったことです。事実、第2電燈局が完成した直後から、鹿鳴館への送電は(恐らく優先的に)開始されます。

 鹿鳴館が完成したのは1883(明治16)年です。鹿鳴館は幕末から明治初期に欧米と結ばれた各種の不平等条約を是正するべく、在日各国の高官を招いてロビー活動を行うための社交場として建設されました。そのため照明用の豪華シャンデリアなどは、当時最新のアーク灯を使っていました。

 そして日本橋茅場町の東京電燈第2電燈局が電力供給するようになった1887(明治20)年からは、シャンデリアも含め、鹿鳴館の照明器具はアーク灯から白熱灯へと転換されていきます。

 鹿鳴館への送配電で実現した白熱灯による照明は、日本橋界隈の株式取引所、銀行、企業などのそれとともに、日本最初の営業用白熱灯の設置事例となりました。

 それにしても、東京電燈が開業したのは1886(明治19)年で、その翌年に第2電燈局(茅場町の発電所)ができています。まさに突貫工事で間に合わせたことがうかがえます。それだけ日本橋界隈の電力需要が大きかったことに加え、鹿鳴館への送配電はそれとは別の意味で、国家的威信を賭けた事業だったからでしょう。

 それはつまり、日本はこんなに早く白熱灯を取り入れることのできる文明国であるという印象を、外国の高官たちに与えることで、不平等条約の是正も有利に運ぼうというような意図があったのではないか。そんなふうにも考えられるからです。

 なにしろアメリカで世界初の白熱灯を使った電灯事業が開始されたのは1881(明治14)年です。鹿鳴館に白熱灯が採用されたのは、それからわずか6年後のこと(ついでに書けば、日本は15年前まで腰に刀を2本差した侍たちが街を闊歩していた国)なのです。

 結局のところ、不平等条約の是正はこの時点では失敗に終わり、夜な夜な夜会が開かれた「鹿鳴館時代」もこの1887(明治20)年を境に、失速してしまいます。しかし、電力の安定供給を受けるようになった日本橋界隈の経済活動は、さらに急速に、発展していったのです。

 それはともかく--。このように電化の時代の初期に、東京電燈の5つの小火力発電所が行っていた東京市中への送電事業は、大型火力発電所・浅草発電所が完成した1895(明治28)年以降は、浅草発電所が一括して担うことになります(浅草発電所は5つの電燈局による合計発電量のさらに倍の発電能力があった)。

 けれども民間の電力需要はその後も急速に、東京電燈の供給能力を常に超える形で伸び続けていきます。そのため東京電燈以外の小さな発電所も次々と建設されるようになりますが、帝都東京における電力需要は明治30年代になって爆発的に急増します。

 その1つの要因をなしていたのが「電車事業」の誕生でした。

写真5/日比谷公園前、帝国ホテル横にある鹿鳴館跡地。現在は日比谷U-1ビルが建つ

☆「電車の時代」到来に伴い造られた発電所トリオ

 東京に初めて登場した電車は品川~新橋間を結ぶ路面電車(東京電車鉄道)で、1903(明治36)年8月のことでした。次に登場したのは同年9月開業、数寄屋橋~神田橋を結ぶ東京市街鉄道です。さらに1904年(明治37)には土橋~お茶の水を結ぶ東京電気鉄道が開業します。

 そしてこれら民間3社の路面電車を動かすための電力をそれぞれ供給していたのが、各社自前の3発電所、すなわち今回の主役である「品川火力発電所」「深川火力発電所」「渋谷火力発電所」なのでした。前述の茅場町の発電所と同様、これら3つの発電所が建設された場所も、当時としては繁華街や住宅街に近い郊外地であり、後にご紹介するように、すぐ近くに河川が流れています(品川火力発電所は目黒川、深川火力発電所は隅田川や荒川から水を引いた運河、渋谷発電所は渋谷川)。

 記録によればこれら3社の電気鉄道事業者は、自社の路面電車に使う電力の余りを、東京市中の企業や住宅などにも配電していたといいます。したがって電気鉄道事業者であると同時に電力事業者でもあったわけです。それは前述したように、東京電燈の供給する電力以上の電力需要が、すでに当時の東京にはあったということの、有力な傍証の一つといえます。

 しかし、思った以上に収益が上がらなかったのか、この民間・電気鉄道事業者兼電力事業者3社は、1906(明治39)年に合併、東京鉄道の社名で一本化し、再出発します。

 そしてそれを機に値上げをしたところ、利用者から大きな反発をくらったのと同時に、電気鉄道事業は官営にしてもっと路線網を拡充させなければ意味がないという世論が持ち上がったりしたことなどから、東京市へと権利が委譲されます。

 それが1911(明治44)年8月のことで、東京市電(後の東京都電)はここに誕生することになりました。

 ちなみに最初に電車事業を開始した民間3社は、それ以前は、いずれも馬車鉄道会社を運営していました。馬車鉄道とはレールの上を馬車に引かれた車両が走る乗り物のことで、この馬車を電車に換えて既存のレールを活用したのが、東京の電車事業のそもそもの原型だったのです。

 東京市に移譲されてからというもの、市電の路線網は急速に充実していきます。民間3社が自前で建設した3発電所はその電力供給源としてフル稼働を続けます。

 急速に拡大する路線網をすべてカバーすることはできませんでしたが、足りない分は他の発電所から供給してもらったりしながら、東京市電は隆盛を極めていきます。

 しかし、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災により、これら3つの発電所はすべて崩壊。震災復興とともに解体整理され、約20年間という短い歴史の終わりを迎えたのでした。

 震災復興の進展とともに忘れられていった3発電所の跡地が、その後どのような経緯をたどっていったのかについての詳細は、現時点ではまだ調査が十分にはできていません。

 さまざまな資料の断片を追っている最中で、その成果はまた別の機会にこのサイト内でお知らせしたいと思っています。

 しかし現在の状況は、この半年程の取材ですべて分かりました。

写真6/1962(昭和37)年製造の都電7500形車輛(小金井市、江戸東京建物園)
写真7/江戸東京建物園に屋外展示されている都電7500形の車内。木張りの床が渋い

☆日本の電気鉄道発祥の地は東京でなく京都だった!?

 さて、ここからは東京市電の初期の電力をまかなった3つの発電所「品川火力発電所」「深川火力発電所」「渋谷火力発電所」の今の様子(跡地)を順番に訪ねていきたいところですが……。

 すいません、横道に逸れてばかりで恐縮ですが、ちょっとその前に、東京にこれらの発電所ができる前後の「国内全体の電車事情」についても少し触れておいたほうがいいでしょう。

 日本で最初に電車が走ったのは1890(明治23)年のこと。場所は東京・上野公園内でした。

 大久保利通の主導で、西南戦争と同年の1877(明治10)年に始まった日本版・万博ともいうべき《内国勧業博覧会》は、1890年で第3回目を迎えていました。

 明治政府が日本の近代化を進め、明治維新から国是としてきた殖産興業を推進するための起爆剤的なイベントであり、第1回~3回(1877=明治10年、1881=明治14年、1890=明治23年)は上野公園で、第4回は京都(1895=明治28年)で、第5回は大阪(1903=明治36年)で、それぞれ開催されました。

 大久保利通がかつての盟友・西郷隆盛の死で終わる西南戦争勃発という大変な状況下においても、あえて開催(第1回目)を強行したという事実が、殖産興業が何よりも明治政府および維新後の日本には最重要な案件であったことを、如実に物語っています。

 内国勧業博覧会の会場内には実際、当時最先端の外国の機械技術の展示がなされたほか、日本におけるその応用技術の発表、さらには日本が誇る超絶技巧の伝統工芸品や美術品、豊かな農産物などが全国から毎回集められ、国内外の大きな反響を呼びました。

 そして1890(明治23)年に開催された第3回内国勧業博覧会において日本に初披露されたのが《電車》だったのです。

 この年の4月~7月まで開催された第3回内国勧業博覧会は、アメリカから輸入した車輛2台を連結し、特別敷設した310mのレール上を走る「電車試乗」の話題で、持ちきりだったようです。

 レールが敷かれたのは、現在の東京文化会館裏から国立科学博物館の正面入口に至る直線道路です。ここが最初から直線道路だったのか? このときの試乗のためにレールを敷くことになったから、まっすぐの道路をあえて造ったのか?

 そのあたりのことはよくわかりませんが、とにかくこの道に139㎝幅というかなり狭軌のレールが敷かれ、15馬力エンジンを搭載した《電車》が走ったのでした(その車輛は後に民間鉄道会社に払い下げられます)。

 ちなみにこのときに使った電力は、前出の東京電燈・第4電燈局(神田)からの送配電(架空単線式500V)でした。しかも第4電燈局は、この第3回内国勧業博覧会の電車試乗イベントに間に合わせるために、工期わずか1年の突貫工事で1890年初頭に竣工したという逸話が伝わっています。

 前述のように、鹿鳴館に送配電した第2電燈局も、その建設に要した期間は1年間でした。建設事業における突貫工事は、江戸時代の玉川上水の開削工事などをはじめ、まさに日本の「お家芸」なのでしょう。近代以前も近代以降も、そして現代も。

 いずれにせよ、黒煙をモクモクと大量に吹き上げ、轟音とともに走る蒸気機関車を見慣れていた当時の人々は、第3回内国勧業博覧会の会場を静かに走っては静かに止まる《電車》に、さぞかし「新たな時代の到来」を実感したのではないでしょうか。

写真8/上野公園・科学博物館前を本邦初の電車が走った
写真9/現在も滔々と流れる琵琶湖疎水が日本初の営業用電車を走らせた

 そしてこの上野公園における第3回内国勧業博覧会会場での《電車試乗》イベントから5年後の1895(明治28)年、日本初の営業路線としての《電車》が京都に誕生します。

 京都電気鉄道(総延長6.4㎞、下京区東洞院通東塩小路踏切~伏見町字油掛)です。当然のごとく、京都電気鉄道にもまた専用の発電所がありました。1891(明治24)年に完成した蹴上発電所(京都水利発電所)で、これは日本初の商業用水力発電所でした。発電に使用した水は現在も琵琶湖から京都市内に引かれている琵琶湖疎水です。

 ところで、前述のように東京に初めて電車の営業用路線が登場したのは、1903(明治36)年8月開業の東京電車鉄道(品川~新橋)です。上野公園における日本初の「電車試乗(1890=明治23年)」から13年後、京都電気鉄道の開業からも8年が経過しています。

 首都東京の電車事業はなぜ、こんなに遅れたのか? それには諸説あり(馬車鉄道等の複雑な権利関係など)、決定的な理由はこの記事のアップまでには判然としませんでした。これについても真相が分かり次第、本サイトでご紹介していきたいと思いますが、京都電気鉄道が1895(明治28)年に開業した理由は分かっています。

 それは首都東京での開催を離れ、初の京都開催となった第4回内国勧業博覧会(1895=明治28年)に間に合わせるためだったのです。なるほど!!

 首都東京がさまざまな事情がらみで「馬車鉄道の電車化」が遅れている間に、京都では内国勧業博覧会の開催に合わせた「日本初の電車事業」立ち上げのプロジェクトが順調に進んでいたわけです。

 いずれにせよ、明治時代前半から半ばにかけて5回開催された内国勧業博覧会は、これまでざっとみてきただけでも、日本の近代化にかなりの拍車をかけたという意味で、とても興味深いイベントだった。それだけは確実にいえます。

 ただ、これ以上、内国勧業博覧会に深入りすると、今回のテーマが「あさっての方向」にいってしまいそうです(笑)。なので、また別の機会に譲るということにして、今回はこのへんで止めます。

 話題を旧東京市電の初期の功労者(縁の下の力持ち)である「品川火力発電所」「深川火力発電所」「渋谷火力発電所」の跡地探訪へと、再び(今度こそ!)戻します。

☆発電所トリオ跡地の探訪は渋谷火力発電所跡から

写真10/渋谷火力発電所の敷地はほとんどが都バスの車両基地
写真11/かつてここに渋谷火力発電所があったことを知る人はもうほとんどない

 東京の《電車時代》の最初期から旧東京市電の初期時代に至るまで、事業の推進に必要な電力をまかなった「品川火力発電所」「深川火力発電所」「渋谷火力発電所」の跡地を訪ねることは、5~6年ほど前からの念願でした。

 そのキッカケは、渋谷火力発電所が掲載されている大正14年12月発行の渋谷区(当時は渋谷町)の地図を、図書館でたまたまみたことにあります。

『大日本職業別明細図・澁谷町』と題する写真入りの地図で、代官山に近い渋谷川沿いの「田子兎」という地名の周囲が空白になっており、真ん中に「東京市電気局澁谷発電所」と書かれています。

 田子兎(たごと)は現・渋谷区東1丁目の一部で使われていた地名で、後に田毎の字が当てられるようになります。

 その田子兎に立地していた渋谷火力発電所は、2年前(1923=大正12年9月1日)の関東大震災で崩壊しているはずですが、恐らくまだ解体が済んでいなかったのでしょう。地図には元のまま掲載されていたのです。

 だから当初、筆者は「大正時代にはこんなところに発電所があったのか」と思っただけでした。しかしその後、東京都交通局が2011(平成23)年7月に発行した、都電の歴史が詳しく書かれた『都営交通100年のあゆみ』というムック本を読み、旧東京市電発足のいきさつや、発足時の1911(明治44)年に民間電気鉄道事業者・東京鉄道から3つの火力発電所をも引き継いだ――という事実なども改めて知ったのです。

 ちなみに東京市電は東京市交通局ではなく電気局が管轄していましたが、それは3つの火力発電所事業も継承したからだったそうです。先述した地図『大日本職業別明細図・澁谷町』に「東京市電気局澁谷発電所」とあったのも、そのためでした。

 この地図のお陰で、東京市電が東京鉄道から継承した3つの火力発電所のうち澁谷火力発電所の場所はすぐにわかりました。

 さっそく出かけてみると(※5~6年前のことです)、跡地は都バスの車両基地になっており、当時の敷地の一部は「渋谷区ふれあい植物センター(熱帯植物園)」や東京電力の変電所施設になっていました。

 都バスの運行路線は「市電→都電」時代の運行路線をかなりそのまま引き継いでおり、いわば旧東京市電の子孫といえます。

 またこの「ふれあい植物センター」の温室の熱源は、都バス車両基地に隣接する「渋谷区清掃工場」のごみ焼却処理に伴って発生する熱エネルギーを活用しています。これも含めて、渋谷火力発電所の跡地は、旧発電所時代の遺伝子をかなり濃厚に継承した活用の仕方をされていると思いませんか?

写真12/渋谷火力発電所跡地の隣接地には、いかにも似つかわしい清掃工場が!!
写真13/清掃工場の焼却熱を活用した「渋谷ふれあい植物センター」

☆品川火力発電所の跡地にも最近まで変電所が!

 次は品川火力発電所の跡地および深川火力発電所の跡地です。

 渋谷火力発電所跡地を初めて訪ねてから5~6年のブランクがありましたが、品川火力発電所と深川火力発電所の跡地を特定するに当たって、筆者は今回、品川区歴史館と江東区文化財課のご協力をいただきました。

 渋谷火力発電所跡のときと同様、図書館に行って明治時代か大正時代のエリア地図をみせてもらうつもりでいたのですが、運悪く新型コロナウイルス騒動で、図書館はそのとき、みな休館。そんな最中に「不要不急の用件」で連絡するのもご迷惑かとは思ったのですが、品川区は歴史館の学芸員の方に、江東区は文化財課の方に、それぞれ思い切って電話してみました。

 その際に少し驚いたのは、明治時代に建設されて関東大震災で崩壊した「品川火力発電所」と「深川火力発電所」については、文化財の豊富な品川区と江東区ではほとんど史跡扱いされていないという現実でした。つまり、電話で所在を聞かれてとっさに答えられるほどの資料や記録は、ほとんどないらしいのです。

 でも、品川歴史館の学芸員さんも、江東区文化財課の職員の方も「時間を少しください」といってからそれぞれ30~40分前後のうちに回答をもたらしてくださいました。

 お二方とも、一般公開が休止されているため私たちにはみることのできない、地図のデータベースを検索し、明治時代の地図のなかから「品川火力発電所」「深川火力発電所」の跡地の位置(現住所)を特定し、速やかに教えてくださったのです。

 そんな訳でさっそく(ようやく・笑)、品川火力発電所の跡地を訪ねました。

写真14/品川火力発電所跡に建つ日本ペイントの事業所(品川区南品川)
写真15/関東大震災後の品川火力発電所跡を想起させる風景が広がっていた(品川区広町)

 品川火力発電所跡地は京浜急行・新馬場駅から徒歩20分ほどの品川区南品川4丁目、ならびに広町1丁目にありました。南品川と広町は東海道線の線路を挟んだ目黒川沿いに位置しており、発電所として稼働していた時代には、目黒川の水を大いに活用していたものと思われます。

 また南品川4丁目側の旧敷地は現在、日本ペイントの事業所(工場および事務所)が立地しており、広町1丁目側は製薬会社・第一三共の敷地になっています。

 広町1丁目側は現在、建物が取り壊された状態のままで、どうやら第一三共の新たな研究施設がこれから建てられるようです。以前はやはり研究施設があったのでしょう。現状は関東大震災直後の様子を髣髴させるかのような空き地が広がっており、なんだか不思議な気分になりました。

 また隣接地も現在は空き地ですが、つい最近まで「東京電力品川変電所」があったことが、数年前の地図で確認できます。

 品川火力発電所の跡地の一部には、関東大震災で発電所が崩壊した後も、渋谷火力発電所跡と同様に、やはり変電所施設があったのです。これも品川火力発電所の遺伝子とはいえないでしょうか。

写真16/南品川と広町を隔てるのは昔も今も東海道線
写真17/ブルーシートのあたりに昨年まで品川変電所があった

☆往時の面影はまったくない深川火力発電所跡だが……

 次に深川火力発電所の跡地を訪ねました。もちろん日を改めて、ということですが、渋谷や品川と違って、深川火力発電所の跡地には「それらしいモノ」は何もありませんでした。

 場所は江東区古石場2丁目。現在は江東区文化センター(図書館などが入居)と高層マンションが建っています。

 ちなみに古石場というのは、江戸時代初期、徳川家康の命令で江戸城の建設を諸大名が行った際、石垣に使う巨石などをストックしておく場所だったことから、この地名が付いたそうです。

 また、そこに石置き場が設定されたのは、付近に埋立地特有の運河が縦横に走っていることから、重量物の運搬にとても便利だったからだといいます。

 当然のことながら、周囲を縦横に走る運河(荒川や隅田川からの水を引いている)の水は、火力発電所の稼働に際しても、大きな力になったことは間違いないでしょう。

写真18/深川火力発電所の跡地には湾岸名物の高層ビル
写真19/深川火力発電所が今あっても似合いそうな江東区の湾岸エリア

 それにしても、と思います。

 今回のテーマである、旧東京市電をかつて支えた3つの発電所の跡地のうち、最後に訪ねた深川火力発電所跡は、かつての火力発電所の遺伝子を伝える物件も運河の水以外にはなく、深川火力発電所跡の「今」をストレートにお伝えするネタとしては情報量が最も少なくなってしまいました。

 しかし、その周辺地域をじっくり歩くうちにいつしか、渋谷や品川ともまた違う、深川周辺ならではの重層的な歴史の記憶がそこかしこから匂い立ってくるかのように思われてきました。

 今は亡き「昭和の江戸人」杉浦日向子さんがいうところの「一日江戸人」、さらには「一日明治人」「一日大正人」がゴチャ混ぜにでもなったかのような不思議な感覚を味わい始めていたのです。

 深川周辺ならではの重層的な歴史の記憶とは、深川エリアに限らず、現在の江東区の大半が江戸時代初期からつい最近まで続いた埋め立て事業で形成されてきた土地なのだということからくる、一種倒錯的な気分のことを指します。

 倒錯的とは変な表現ですが、深川をはじめとする江東区および周辺エリアで実施されてきた埋め立て事業の歴史的スパンは、江戸時代から明治・大正・昭和・平成まで400年以上にも及びます。

 そしてたとえば400年近く前に開削された小名木川(荒川と隅田川を直結させた運河)や竪川などのほとりに立てば、足もとには400年前と変わらない荒川や隅田川から引かれた水が流れ続けています。同時に、すぐ近くにも遠くにも、タワーマンションや超高層ビルが林立している近未来的な風景があって、それらがごく自然に混交しているのです。まさに時空を超えた風景が、重層的に同居しているのです。

 深川の周辺は江戸時代から絶えず変化(なにしろ毎年のように土地の広さが変わるのです)してきて、今もその渦中にある土地という雰囲気が満々です。

 そうした時代の移り変わりの狭間で必要が生じて生まれ、20年ほどの短い生涯を終えた深川火力発電所。具体的な痕跡はなくとも、海から運河から生じる風に吹かれていると、そんな歴史の記憶の断片が確かに遺伝子として漂っているのだと次第に思えてきます。

写真20/深川の運河を活用した古石場親水公園
写真21/深川の運河には江戸・明治・大正・昭和・平成が息づく

 明治時代末期から大正時代にかけ、東京の路面電車(東京市電)の動力源である電力を供給し続けた「品川火力発電所」「深川火力発電所」「渋谷火力発電所」の跡地を訪ねる小トリップは、これでひとまず終了です。しかし、これからも機会を見つけては、それぞれの跡地を訪ね、新たな痕跡探しをしていきたいと考えています。

※参考資料『都営交通100年のあゆみ』(東京都交通局)/『東京の地名由来辞典』(竹内誠編、東京堂出版)/『日本史年表・地図』(児玉幸多編、吉川弘文館)/スペシャルサンクス「品川区歴史館」「江東区文化財課」他、多数。

写真22/今もたくましく走る最後の都電・都営荒川線
写真23/旧東京市電の運転席からみえる風景はどんなだったろうか(都営荒川線)

                  (取材・写真・文/未知草ニハチロー)