産業遺産

GO! GO! エレクトリシャン 小トリップ・シリーズ No.5

日本の近代から昭和前半期までの経済を支えた産業遺産!

榎本武揚が発見に関与した北海道最古の炭鉱跡周辺を歩く

~北海道三笠市・三つの旧炭鉱跡探訪記~

取材・構成/「週刊電業特報」編集部(砂耳タカシ)

写真1/1960年建設、当時「東洋一」とされた奔別炭坑立坑櫓(たてこうやぐら)跡

「GO! GO! エレクトリシャン 小トリップ・シリーズ No.5」は、少し前の旅、いわゆる蔵出しのネタです。

 旅をしたのは2012年7月。今から8年前、あの東日本大震災の翌年夏のことでした。

 訪ねたのは北海道三笠市の旧北炭・幌内(ほろない)炭鉱跡を中心に、同じ市内にある旧北炭・幾春別(いくしゅんべつ)炭鉱跡、旧住友・奔別(ぽんべつ)炭鉱跡と、その周辺に残る旧炭鉱町の面影です。

 当時は三笠ジオパークが認定(2013年9月)される前だったため、現在でも制限のある炭鉱跡への探訪はさらに狭き門で、結果的に上っ面をなでるだけの旅になってしまった感は否めません。しかし、巨大な産業遺跡がもつ独特の空気感、世界感に圧倒されると同時に、不思議な既視感にもしばしば捉えられました。

 また、なぜ殊更に「東日本大震災の翌年」と記憶しているかといえば、当時は東日本の余震とされる揺れが、関東地方でもちょこちょこ感知されていました。その少し前に関西方面に出かけたときには、乗っていた東海道新幹線が、東日本の余震のためにしばらく立ち往生しました。

 そんなわけで、旧炭鉱町の跡を訪ねる小トリップの最中にも、脳裏に浮かんでくるのは旧炭鉱でしばしば発生した落盤事故への連想でした。地中の奥深く潜っての作業ですから、そこで地震を要因とする落盤事故や、ガス爆発による火災が発生でもしたら、ひとたまりもありません。

 閉所恐怖症ぎみの筆者には、考えるだけで、とても恐ろしいことです。実際、幌内炭鉱は1989(平成1)年に閉山(開山1879=明治12年)しましたが、その直接の原因になったのは、坑内でのガス爆発事故(1975=昭和50年)とそれに伴う大火災による後遺症でした。

 もちろん最大の要因は他の炭鉱と同様、電力を始めとする日本のエネルギー政策が1960年代以降に石炭頼みから石油頼み(LNGなども含め)へシフトしていったことにあるわけです。しかし、坑内のガス爆発で多大な犠牲者を出したことが、最終的かつ決定的な引き金になったのです。

 また幾春別炭坑は1886(明治19)年に開山後、1957(昭和32)年に閉山しますが、その直接的な理由は周辺にダム建設計画が持ち上がったことと、たび重なる自然発火事故などだったとされています。

 奔別炭鉱は1902(明治35)年に開山後、1971(昭和46)年に閉山します。その直接的な原因も、立坑密閉作業中の爆発事故による被害でした。

 他の地域の炭鉱も多かれ少なかれ、同様の終わり方(日本経済を支えた結果、多大な犠牲を払ったうえでの閉山)をしているところが少なくありません。幌内とその周辺の炭鉱の初期にはまた、囚人が強制的に労働させられるなど、現在の観点からみれば「負の歴史」というしかない側面もあります。

 そんなこんなを含め、だから単純に「近代の産業遺産だ!! 凄い!」と空騒ぎする気持ちにはなれません。

 同様に、産業遺産としての炭鉱跡の探訪についてはどこも、とても魅力的な経験である半面、過去に炭鉱にかかわった人々へのリスペクトの念を忘れず、謙虚な気持ちで実践したいものだと、いつも思います。

 そして――。いや、しかし――。そのうえでなお、こういわせていただきたいのです。

 幌内炭鉱跡・幾春別炭坑跡・奔別炭鉱跡やその周辺を巡る小トリップは、実にめくるめく魅力に満ちた体験だった、と。

写真2/奔別炭坑立坑櫓跡の背後にある旧炭鉱施設
写真3/奔別炭坑跡の敷地に転がっていたショベルのバケット

☆石炭の宝庫・北海道の原点は幌内炭鉱

 幌内炭鉱跡と幾春別炭鉱跡、奔別炭鉱跡のある三笠市には、大きな見どころがもう2つあります。大量のアンモナイト化石やエゾミカサリュウの化石など超太古の遺産を集めた三笠市立博物館、さらに石炭産業の搬送に大活躍したSLを始めとするダイナミックな鉄道遺産を集めた三笠鉄道公園です。

 炭坑とアンモナイトと鉄道――。これらはみな、空知地方(三笠市周辺の広域圏)の太古以来の歴史に育まれた、深~い関係で結ばれています。

 三笠市を含む空知地方は北海道最古の炭鉱地帯であり、近代炭鉱発祥の地でもあります。北海道の炭鉱地帯のなかでも、空知地方の空知炭田と、隣接する夕張地方の夕張炭田は、合わせて北海道を代表する石炭の大鉱脈地帯・石狩炭田に区分されます。

 その石狩炭田のなかでも空知炭田は、まず幌内炭鉱が1879(明治12)年に北海道で初めて開山するなど、北海道炭鉱史の出発点になりました。それ以前の1872(明治6)年に、北海道で初めて石炭の鉱脈が見つかったのも空知炭田(幌内)でした。

 石炭は約4000万年~6000万年前の湿地だった場所が、長い年月をかけて地層を形成するのに付随し、埋もれた植物の堆積が高温や大地の圧力などにより圧縮され、石炭化していったのだとされています(三笠ジオパークの公式サイトより)。

 なので、石炭の大鉱脈がある地層の近くには、北海道が海底からせり上がり、陸地化していった6500万年前頃に絶滅したとされるアンモナイトなどの化石も数多く埋もれています(とくに桂沢湖周辺)。また、アンモナイトが全盛を極めていた約1億年ほど前の海には、エゾミカサリュウの愛称で知られ、アンモナイトを食べていたとされる肉食の大型海棲爬虫類なども生息していました。

 超太古の陸地形成の副産物として、アンモナイトやエゾミカサリュウなどの化石化とともに誕生した石炭の大鉱脈は、近代になってからの炭鉱開山に伴い、この地にいちはやく鉄道路線を引き入れる要因にもなります。

 北海道内最古の鉄道にして、全国でも3番目に敷設された幌内線です。幌内線は幌内から産出された石炭を、積出港のある小樽に運ぶため1882(明治15年)に全線開通しました(幌内~手宮、それ以前に札幌~手宮間が部分開通)。さらに幾春別炭坑の選炭場と幌内を結ぶ支線も開通し、北海道の石炭景気は、大活況を呈していくのです。

写真4/三笠市立博物館に展示されているアンモナイトの化石群
写真5/エゾミカサリュウの骨格の化石(三笠市立博物館)
写真6/周辺から多数のアンモナイト化石が出土している桂沢湖

☆石炭の大鉱脈発見に貢献した榎本武揚

 空知地方に有力な鉱脈があるという事実を、最終的に断定したのは、あの榎本武揚でした。

 榎本はよく知られているように、土方歳三などとともに箱館(現・函館)の五稜郭を根拠地に、1868(明治1)年12月~1869(明治2)年6月まで、明治新政府と戦った旧幕府軍の元総裁です。

 この箱館戦争に敗れた後、榎本は江戸で投獄され、1872(明治5)年までの約2年半を囚人として過ごします。そして同年3月に特赦され、特赦を主導したとされる旧薩摩藩士・黒田清隆(当時の北海道開拓使・次官)の肝煎りで、北海道の開拓を管轄する開拓使の役人に任用されます。榎本は同年6月に早速北海道へ入り、各地の資源調査を行いますが、この黒田清隆と榎本武揚の関係には興味深いものがあります。というのも、黒田は後に首相にまで昇り詰めますが、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争の際には、榎本が率いる旧幕府軍と直接対峙した新政府軍の司令官でした。敵同士だったのです。

 しかし、旧幕府軍に降伏を勧告すると同時に榎本をはじめとする優秀な人材の助命嘆願を新政府にするなど、近代国家の道をこれから歩み始める国のためになる人材なら、敵も味方もなく登用すべきだという広い心をもっていました(私生活ではかなりの酒乱で、毀誉褒貶の多い人だったようですが・笑)。

 重要犯罪人と目された榎本が2年半で特赦された背景にも、共に戦い合った因縁のある北海道の開拓のみならず、日本の将来には、国際的に通用する視野と実力をもつ榎本は不可欠と考えたからだったようです。

 榎本はそうした黒田の慧眼を、自らの力で早々に証明してみせます。北海道開拓使に任官するため、北海道入りする途中で、札幌在住の早川長十郎という人が持ち込んだ石炭の塊に着目。その塊の採れた空知(幌内)に行き、自ら探索を行った結果、この地に石炭の大鉱脈があることを発見するのです。

 そもそも幌内で初めて石炭の塊を見つけたのは、石狩の住人・木村吉太郎という人でした。吉太郎は1868(明治1)年に幌内で偶然石炭の塊を見つけ、1871(明治4)年には吉太郎の代理人が北海道開拓使に持ち込みますが、まったく相手にされませんでした。

 その話を聞いて興味を持ったのが、前述の早川長十郎です。自ら幌内に乗り込んで石炭の塊を数個掘り出すと、1872(明治5)年、満を持して北海道開拓使に持ち込みます。それがちょうど赴任してきたばかりの榎本の目に触れるのです。

 榎本は実際、多才な人でした。幕末期に5年間もの長期にわたってオランダ留学を果たしますが、その際には航海術や国際法などに加え、化学についても広く学んできたとされます。その化学的知識が奏功し、石炭の大鉱脈の発見に繋がるわけです。

 それにしても木村吉太郎が幌内で石炭の塊を見つけた1868(明治1)年といえば、前述のように箱館戦争が始まった年です。

 翌1869(明治2)年には箱館戦争に敗れ、榎本は黒田清隆の助命運動で死刑を免れ、1872(明治5)年まで牢獄に入れられます。

 前述のようにその間の1871(明治4)年には、木村吉太郎(代理人)の手で石炭の塊が北海道開拓使に一度持ち込まれたものの相手にされず、榎本が特赦されて北海道に戻ったとたん、早川長十郎の手で、榎本の目の前に現れるのです。

 榎本が函館戦争を起こした遠因の一つは、幕末に賊軍になり、職を失ってしまった旧幕府の侍たちを北海道に集め、開拓事業をさせたいという目論見があってのことだったと伝えられています。

 併せて、ロシアの南下政策などを防ぐための防衛軍の役割をも果たそうと明治新政府に献策(榎本のこのプランは、後に屯田兵制度で実現)しますが、明治政府は当然拒否。箱館戦争へと突入したのです。

 こうしたプロセスをみてもわかるように、榎本は北海道の開拓と北海道という大地のもつ可能性に、以前から大きな夢を持っていたことは間違いありません。それを敵として戦いながら見抜いていたのが黒田清隆です。そうした運命の多彩な糸がもつれあいつつ、紆余曲折をへながらも、最終的に石炭の大鉱脈発見という形で一つの実を結ぶわけです。

 ともあれ、このようにして大鉱脈が見つかったことにより、1879(明治12)年、幌内炭鉱が北海道初の炭鉱として華々しく開山するのです。

 そのときには榎本は、もう炭坑とは直接的にはかかわっていませんでした。鉱脈の最終的な発見者として幌内炭鉱開山への道筋をつけた2年後の1874(明治7)年には、外交官となって欧州各地で大活躍。幌内炭鉱が開山した1879(明治12)年には、外務大輔(現在の外務次官、当時の全権大使)へと急速に大出世します。

 同様に榎本を見出した黒田清隆も陸軍中将、開拓使長官、農商務大臣などを歴任、1888(明治21)年には、初代内閣総理大臣・伊藤博文の後任として第2代内閣総理大臣にまで出世します。

 なにはともあれ、榎本の優れた識見と多才な能力への評判は、黒田を筆頭とする明治新政府の要人から日を追うごとに高まっていきましたが、それを受け入れ大出世していった榎本に対し、福沢諭吉をはじめ「旧幕府びいき」を自認する多くの人々が「変わり身が早すぎる」と大批判を展開します。

 事の是非はともかく、榎本が明治新政府の方針を潔く受け入れ、北海道開拓使として赴任しなければ、幌内の発見はどうなっていたかわかりませんし、北海道全体の炭鉱史は少なくとも数年の遅れを強いられたかもしれません。

 近代化に舵を切ったばかりの日本にとって、この時期の数年間はとてつもない重みがあります。そう考えると、榎本の北海道および明治国家への貢献は小さくありません。

 榎本武揚と北海道の関係は箱館戦争だけではなく、むしろその後により深まったのだといえます。

 榎本の北海道への思いの深さは、たとえば逓信大臣(現在の総務大臣)に在任中の1882(明治15)年に、幌内炭鉱の鎮守・幌内神社(1880=明治13年建立)からの依頼で、墨痕鮮やかな社号額を揮毫していることからもわかります。

「幌内神社 明治15年5月吉日 正四位榎本武揚謹書」の文字は、幌内炭鉱で毎日命がけの過酷な仕事をしている人々にとって、箱館戦争を乗り越えて「賊軍の親玉」から大出世し、幌内で石炭の大鉱脈をみつけてくれた人による、まさに「守護神」の言葉のような役割を当時は果たしたのかもしれません。

写真7/幌内から小樽まで石炭を初期に運んでいたのは石炭をエネルギーにしたSLだ(三笠鉄道村)
写真8/昭和に入ってからの石炭運搬の主役はジーゼルカーに(三笠鉄道村)

☆幌内炭鉱・幾春別炭坑・奔別炭坑の黄金時代と没落

 さて、1879(明治12)年に幌内炭鉱が開山し、3年後の1882(明治15)年に幌内線が全通してからの幌内炭鉱および空知地方の発展はめざましいものでした。

 幌内線(幌内~手宮)の全通が全国3番目(明治5年の新橋~横浜間、明治7年の大阪~神戸間に次ぐ)の早さだったことは前述の通りですが、幌内線全通の翌年(1883=明治16年)には、幌内~手宮の間に北海道初の電話線も開通します。これは鉄道連絡用のもので、当初は電信で連絡を取り合っていたそうです。

 同じ1883(明治16)年には、幌内炭鉱を中心にした幌内村が開村します。同じく現在の三笠市の中心部に当たる地域には、市来知村が開村します。

 市来知村にはその少し前に、炭鉱での労働に政治犯などの囚人を従事させるべく、空知集治監(現在の刑務所)が出来ていました。空知集治監で働く人々が移住してくるとともに、その生活を支えるための各種の店舗なども出来ていき、一つの村を形成するようになったのです。

 そして1889(明治22)年には幾春別炭坑を中心とする幾春別村が開村。1906(明治39)年には幌内村・市来知村・幾春別村の3村が合併して三笠山村が誕生。1942(昭和17)年にはそれが三笠町となり、1957(昭和32)年には三笠市へと発展していきます。

 三笠市が誕生した1957(昭和32)年は、実は幾春別炭坑が閉鎖された年でもあるのですが、機械化の進展による増産体制の拡大や、日本のエネルギー政策がまだ石炭頼みを保っていたためなどもあって、幌内炭鉱および奔別炭坑の賑わいは続いていました。

 したがって幾春別炭坑が閉山になっても三笠市の人口の増加は続きました。1959(昭和34)年には6万2781人となり、ピークに達します。

 明治初年にはほとんど人の住んでいなかった地域でしたが、1879(明治12)年に幌内炭鉱が開山してからちょうど80年目に人口増加のピークを迎えたのです。

 しかし、上り坂の頂点(ピーク)の次に来るのは下り坂です。以後、奔別炭坑の閉山(1971=昭和46年)、幌内炭鉱の閉山(1989=平成1年)をへて、人口は急減します。現在に至るまで減少化は続き、2019年12月末の人口は8,304人となっています(筆者が8年前に訪れた際の三笠市の人口は約1万人でした)。

 ちなみに三笠市の人口8,304人は全国792市中の下から3番目(790位)。最下位(792位)は歌志内市の3,583人、下から2番目(791位)は夕張市の7,769人、さらに三笠市より一つ上(789位)は赤平市の1万1,105人です。そしてこの人口最小を競う4市はいずれも、明治時代初期に北海道初の近代炭坑として出発し、まちづくりが行われていった石狩炭田に位置しています(人口の数値はいずれも2019年12月末の時点)。

 それにしても北海道最古の炭鉱として出発した幌内炭鉱が、昭和が終わる年であると同時に平成の始まる年に閉山したという事実は、明治・大正・昭和前半期の日本のエネルギー政策を支えた石炭全盛期の終焉を縁取る事実として、符合が合い過ぎています。

 しかし、幌内炭鉱跡をはじめ、空知炭田にはまだ多くの石炭鉱脈が残っており、掘られないままに放置されているというのが実情です。今も大量に地下深くに眠る、超太古からの贈り物・石炭は、もはや無用の長物なのでしょうか?

 いや、これから先、どのような形で、石炭がまた貴重なエネルギー源として脚光を浴びないとも限りません。現在の火力発電のシステムでは、環境問題等の観点から石炭をメインには使えません。発電に至る一部の工程で石炭を使用する場面もありますが、使われているのは外国産の石炭です。同様に製鉄においても火力の強い石炭やコークスは一部で活用されていますが、それも外国産です。

 今も大量に地下に眠る石狩炭田の石炭については、たとえば地元北海道の大学の研究室が、石炭を地上で燃やさず、地下深くで安全に燃やしてガスエネルギーだけを取り出すための技術研究をしている事例があり、実証実験では悪くない結果が出ていると聞きます。

 今後の研究の推移が注目されるところです。

写真9/幌内変電所跡。緑が人間のかつての営みを浸している
写真10/かつてこの場所でどれほどの電気エネルギーが交差していたことだろう(幌内変電所)
写真11/幌内変電所のレンガ造りの建物のなかには、今もさまざまな配電関連の機械が保存されている
写真12/幌内変電所の周囲にはこうした小物(碍子)もたっぷり

☆炭鉱の電化を担った旧幌内変電所跡の魅力と幌内神社

 さて、ここで時間軸を大正時代中期へと戻します。

 上の写真4点にご注目ください。

 旧幌内炭鉱変電所の取材時の姿です(8年前の時点)。幌内炭鉱変電所は、炭鉱の鎮守・守護神である幌内神社の境内地のすぐ下に1919(大正8)年に建設され、幌内炭鉱が終焉を迎える1989(平成1)年まで稼働していました。

 ここでは「20㎞離れた南側の夕張の発電所から送られてくる高圧の電気を、炭坑内の機械に使用できるような電圧に落としていました」と、三笠ジオパークの公式サイトに説明が載っていますが、その「夕張の発電所」の詳細については、この記事のアップまでにはつかむことができませんでした。

 夕張の発電所といえば、1925(大正14)年に完成した旧北炭・滝の上発電所や、1926(大正15)年に完成した旧北炭・清水沢火力発電所が有名ですが、それ以前に別の発電所があったのかもしれません。あるいは、滝の上発電所か清水沢火力発電所が「全面的に完成する」以前にすでに一部が稼働していて、そこから幌内変電所に送電されてきていたということなのかもしれません。

 そのあたりの詳細を三笠市か夕張市の担当部署に電話して聞こうかとも思ったのですが、新型コロナウイルス禍でどこのお役所も今はてんてこ舞いの忙しさだと思い、遠慮しました。いずれ近いうちに、新型コロナウイルス禍が少し落ち着いた頃に(早く落ち着いてほしいものです)、確認したいと思います。

 それはともかく――。この幌内変電所は素晴らしい機能を持っていたようです。幌内炭鉱への電動式の大型機械の導入を実現しただけでなく、大正時代中期の段階で、大都市圏以外ではまだ珍しかった電灯のある生活が、幌内炭鉱で働く人々の暮らす炭鉱住宅では実現していたとされます。

 採炭用の各種大型機械や、石炭を運び出すのに不可欠なベルトコンベアーなど、電化の推進は炭坑の仕事の効率化に寄与しました。

 さらに、幌内変電所を中継して、幌内からは100㎞離れた歌志内をはじめとする北炭の各炭鉱まで送電されていたとのこと。

 廃墟のようになった現在の写真からは、往時の全盛期そのままの姿は想像できません。しかし、今は廃墟のように静かすぎるからこそ「かつては、さぞかし……」と、逆に電気というものの持つパワーの凄さ、石炭産業全盛時代の幌内や他の炭鉱の活気が想像されてくるようにも思われてきます。

写真13/幌内神社がかつてここにあったことを示す石碑
写真14/時代をへた幌内神社の狛犬
写真15/幌内神社の階段から幌内変電所を見下ろす

 幌内変電所の裏山には幌内神社の跡があります。上の写真3点は幌内神社の取材時の姿(これも8年前)です。

 幌内炭鉱の開山の翌年(1880=明治13年)に建立された幌内神社は、炭坑の安全を守護する神社として尊崇を集めました。しかし相次ぐ炭鉱の閉山で次第に寂れ、筆者が訪問した2012年には、無人社となって久しく、完全に跡地と化していました(前述の榎本武揚の筆になる社号額は三笠市立博物館に収蔵されています)。

 かつてあった拝殿跡には写真のような石碑があるだけ。往時の姿のまま健在なのは、苔むした一対の狛犬だけでした。

 筆者が訪問した時期の4年前(2008年)までは、半ば壊れた状態ではあったものの、社殿がまだ残されていたそうです。しかし、この年の雪害により全壊。幌内神社を再建しようとする動きもあるようですが、現在もほぼこのままの状態と思われます。

 北海道の旧開拓地に行くと、内地から移住してきた人々は、仕事が落ち着くと真っ先に神社と学校を作ったという事実が分かります。どんなに厳しい生活のなかでも、自分や家族、仲間たちの安全を護ってもらう神社と、次世代を育成する学校は、何をおいても建ててきたのです。そうした神社のなかでも、とりわけ炭坑の安全を護ってもらうためという目的意識の強かった幌内神社のこの様子は、すぐ下にある変電所跡の状況と合わせ、訪れる者に幌内炭鉱の栄枯盛衰を無言のうちに語り掛けてきます。

 人口減少の続く三笠市であっても、しかし、かつて炭鉱で働いていた人々の暮らしていた地域の多くでは、今も市民たちの生き生きとした暮らしが展開されています。数は減ったものの学校や神社も健在ですし、炭坑住宅も一部で顕在です。

 幌内変電所の周辺はもともと人が暮らす場所ではなかったので、炭鉱閉山とともに写真のように、普段は寂れきっています。けれども、幌内炭鉱跡、幾春別炭坑跡、奔別炭坑跡の周辺は、前述のように広範囲にわたって三笠ジオパークに認定されたため、旧炭鉱跡の内部も含めて、かなりの部分が一般公開されるようになりました。

 残念なことに、現在は新型コロナウイルス禍による緊急事態宣言が出されているため、どの施設も立ち入りは休止中ですが、緊急事態宣言が解かれたら……。いつの日か、必ず再訪し、とくに旧炭鉱の内部まで、可能な限り隈なくみて歩きたいと願っています。

写真16/三笠市は「北海盆歌」発祥地。盆踊りは炭鉱の人々の最大の楽しみ。当時使われた櫓が復元され現在も使われている
写真17/大正時代から営業している更科食堂も旧炭鉱町の重要な景色(幾春別地区)
写真18/エゾミカサリュウのおまわりさん

                  (取材・写真・文/未知草ニハチロー)